ヘルプ

小机城(横浜市港北区・小机城址市民の森)

  • 1
  • 284

写真: 小机城(横浜市港北区・小机城址市民の森)

写真: 小机城(横浜市港北区・小机城址市民の森) 写真: 小机城(横浜市港北区・小机城址市民の森)

mixi記事コピペ――2014年09月26日 16:24

14.09.25.
別名、飯田城・根古屋城
築城年、不詳(永享の乱頃と考察されている(1438〜1439年))
築城主、山内上杉氏
廃城年、天正18(1590)年

史料に登場するのは文明10(1478)年4月、太田道灌の攻城戦。「長尾景春の乱」において、豊嶋氏がこの城に立てこもり太田道灌と合戦、敗れている。
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000089894564&owner_id=32815602
道灌はここで――
小机は
まず手習いの
初めにて
いろはにほへと
ちりぢりとなる
――という戯れ歌を詠んで味方を鼓舞した。
鶴見川対岸の亀の甲山に陣を敷く。城の守りが堅固なうえ道灌軍は小勢だったため、落とすのに約2ヶ月要した。
※道灌が歌を詠んだ松は以後「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て現存する(横浜市神奈川区羽沢町)。

この後廃城となったが、小田原北条2代 氏綱はこの地域を勢力下に治めるとこれを修築、宿老 笠原信為(北条家五家老)を城代として配置し、小机衆を組織した(大永2(1522)年〜大永4(1524)年頃)。
鶴見川と多摩川に挟まれた小机郷に大小29の武士団の館を構え、僧侶を招き寺院を建立して城下町を形成していった。武士団の血筋は枝を増やし、江戸時代を経、現代に至ってもその子孫がこの付近に住んでいるという。(主な姓名:笠原、曽弥、神田、市野、増田、座間、村嶋、二宮、岩本、高田、中田、長谷川、沼上、石原、大曾根。百官名も。)

城主
北条氏堯(氏綱4男)
北条三郎(氏康7男 上杉景虎)
北条氏光(氏康8男?9男?養子(北条氏堯の子)?)

天正18(1590)年、徳川家康関東移封のときに廃城となった。

※太田道灌(資長)→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000039510987&owner_id=32815602




本丸、二の丸はかなりイイ状態で遺構を残している。
周辺は宅地化が進み、また第三京浜敷設によって一部以上が破壊されているが、主要部分は公園化されてよく整備されている。

現地案内板に因るところの本丸と二の丸は、中世城郭事典だと反対になっている。虎口、馬出、土塁など曲輪の防御態勢それぞれに可否があり、判然としないようだ。

第三京浜に削られてしまった所にも曲輪があったと見られている。
富士仙元の土壇も城の遺構のようだ。
宅地化された所はもっと高地だったはず。
金剛寺の西側も城郭の一部だったと思われる。なにせ「古城」の呼び名は南側に存在する。墓地形成に削られ、構造はもはや不明。

戦時中、防空壕として掘られた穴が複数ある。
2郭下の崖には、直径30cmほどの穴がいくつもあり、「水場」と呼ばれ、中世の水源だったようだ。この水場の下には江戸期の墓石がいくつも転がっているらしい。ただ、墓碑銘が削り取られて読めなくなっている。それは、被差別部落の方のものではないかと言われている。

アルバム: 公開

お気に入り (1)

1人がお気に入りに入れています

コメント (0)

まだコメントがありません。最初のコメントを書いてみませんか?

コメントするにはログインが必要です。フォト蔵に会員登録(無料)するとコメントできます。