Help

高崎城(和田城。高崎市)追手門

  • 365

Photos: 高崎城(和田城。高崎市)追手門

Photos: 高崎城(和田城。高崎市)移設復元櫓門 Photos: 奥平公廟所(高崎市)奥平家発祥之地

mixi記事コピペ――2016年04月30日 22:14
16.03.16.
※和田城――
築城年、平安末期
築城主、和田義信
城主、和田氏
廃城年、天正18(1590)年。
和田氏は山内上杉氏家臣。
永禄4(1561)年、和田業繁は山内上杉氏(越後上杉氏)より甲斐武田氏へ翻意。
天正10(1582)年、甲斐武田氏滅亡後、和田信業(跡部勝資嫡子。和田業繁養子)は後北条氏 氏直へ降る。滝川一益が領主となると織田氏へ属したが、信長が変死するとふたたび後北条氏傘下に。
天正18(1590)年、小田原征伐。4月19日、前田利家・上杉景勝連合軍に包囲され降伏、廃城となった。(信業は小田原城、和田城代は子か家老か。)
戦後和田氏は没落。のち子孫は主家所縁の会津保科氏に召し抱えられた。
参考「風神ネットワーク」(?)様→ http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/siro/takasaki/wada/wada.htm

●高崎城――
築城年、慶長3(1598)年
築城主、井伊直政
城主、井伊直政、酒井左衛門尉家次、戸田松平康長、藤井松平信吉、三河安藤氏重信系3代(3人)、大河内松平輝貞、間部詮房、大河内松平氏輝貞系10代(10人)
廃城年、明治6(1873)年以降
遺構、乾櫓(県重文)、東門(移築)、土塁、水堀。
慶長2(1597)年、この地が交通の要衝(中山道と三国街道の分岐点)であることから、北国勢監視のため、家康は箕輪城主井伊直政に築城を命じた。(和田城は破却されていた?)
慶長3(1598)年、直政は箕輪城から高崎城へ移った。入城に際し「高崎」と名付けたとされる。
直政は箕輪城下に龍山詠譚和尚を招き、恵徳寺を開創する。その龍山が「松は枯れることはあっても、高さは限りない」と述べたとことから(?)名付けたとされている。(それでは高松なのでは?)
箕輪より町家や社寺を移して城下町を築いた。
寛永9(1632)年10月20日、安藤重長に預けられる形で徳川忠長が逼塞。
寛永10年12月6日(1634年1月5日)、幕命により大信寺において駿河大納言忠長、自刃。(城内説。)
駿河大納言・忠長
明治6(1873)年、廃城令施工後も存城。第3師官官内分営所が置かれる。以後、建造物は移築もしくは破却され、跡地の大半は歩兵第15連隊の駐屯地として使用された。


烏川に沿って築城された輪郭梯郭複合式平城。
本丸には御三階櫓(天守)、乾(いぬい/北西)、艮(うしとら/北東)、巽(たつみ/南東)、坤(ひつじさる/南西)の4基の隅櫓があった。乾櫓は現存(県重文)。
本丸を囲む、西の丸、梅の木郭、榎郭、西曲輪、瓦小屋。
二の丸、三の丸が梯郭式構成。
城の周りは土塁で囲まれ、石塁はほとんど造られなかった。
城内には本丸門など16の門があり、通用門として使われていた東門(市重文)だけが移築復元されて現存している。
三の丸土塁と水堀が当時の面影を今に伝えている。


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1hYcnOa-Dh-CZpWYn11kqD2XP3vk&usp=sharing

Favorite (0)

No one has added this photo to his favorite.

Comments (0)

"No comment yet, please write the first comment.

To make comments on artworks, click Login. User registration here.